以下は、聖書の「主」という表記に対しての問題意識についてである。
イザヤ42:8
わたしは主(?)、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
イザヤ51:15
わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。
その名は万軍の主(?)。
出エジプト3:15
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(?)が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。
この3つの聖句を見たときに疑問を感じないだろうか?
「わたしの名」として記載されている箇所がすべて「主」という代名詞に置き換わっているのである。
自明のとおり「主」というのはただの代名詞である。
ではなぜ御名が書かれているであろう個所に名前が示されておらず、
”主”という代名詞が置かれているのだろうか?
これは、偶然なのだろうか?意図的なのだろうか?
聖書の中でも本当の名前が記載されいる箇所は数えるくらいしかない。
翻訳の際に御名が記載されている箇所をあえて代名詞に置き換えるような
規則でもあったのだろうか。
そうでなければ誰が何のために置き換えたのだろうか?
また人間的に代名詞に置き換えるルールがあったとしても、
”主”と呼ぶことが天の父の御心にかなうことなのだろうか?
聖書でも”主”と呼ぶように記載されているのだろうか?
以下は参考聖句である。
イザヤ12:4
主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。
イザヤ50:15
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
詩編91:14
彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
聖書を見渡すと御名を呼び求めよと書いてあることが分かる。
それはそうだろう。
人間世界で例えてもお分かりのように、人を呼ぶときにはその人の名前を呼ばないだろうか?
ここで矛盾を発見する。「御名を呼び求めよ」と言われているのに御名が
意図的に”主”と置き換えられているのである。
※聖書で御名が記載されていてもあえて”主”と記載しているとの注釈がある。
ではなぜ?何のためにこのような処置がなされたのか?
また呼び求めよと言われている御名とはいったい何であるのか?
現在日本での御父の名は「ヤハウェ」御子は「イエス」とされている。
しかしアメリカでは御父は「ジェホバ」御子は「ジーザス」である。
御父はまた他に「エホバ」「ヤーウェ」、御子はイスラエルでは「イェシュア」となっている。
なぜこのように名前にバリエーションがあるのだろうか?
ここでわかりやすいように日本の名前で考えてみよう。
日本での名前が「田中」だとする。
この名前がアメリカに行くと「松村」になったり「中林」になったりするであろうか?
イントネーションや正確な発音は違えども、「田中」になるはずである。
現在日本では「ヤハウェ」「イエス」という名が普通に使われているが、これが日本での正しい呼び方であると割り切ってもよいものだろうか?
そして、これらの呼び名は本当に正しいのだろうか?
ではなぜ?
教会の牧師が言ったからだろうか?世間がそう言っているからだろうか?
日本語の聖書にそう書いてあるからだろうか?
(御父の名は実際には日本の新改訳聖書には「ヤハ」(イザヤ12:2、イザヤ26:4)としか書かれていない)
しかし、真の聖書といえるのは元々の言語で書かれたヘブル語・アラム語(旧約)とギリシャ語(新約)の聖書だけである。
では元の言語での聖書はどう記述しているのか?
なぜ御名が隠されているのだろうか?
またそれが御心であったのか?
その答えはすべて聖書の中に書いてあることを感謝します!ハレルヤ!
<この記事に少しでも興味を持ち、より詳しくご覧になりたい方は、「①御名を侮るとは?」「②ヤフワ様について」「③ヤフシュア様について」「④御名に対してのQ&A」をご参照ください!!>