世界の歴史の中で最も大きな一つの詐欺が1700年前に二人の男によってなされた。
そのうちの1人は、キリスト教を公認したとされるローマの皇帝でもあったコンスタンティヌス1世(272-337)であり、もう1人はユダヤ人のリーダーであったヒレル2世である。
コンスタンティヌス1世は、統治していたローマ帝国で聖書的なカレンダーを使用するのを禁止し、日曜日を救い主であるヤフシュア様の復活された日としてカレンダーを統一させた。
この改定というのは様々な反応を生み、結果的にユダヤ人のヒレル二世は、聖書的なカレンダーを太陽暦に修正することによって、コンスタンティヌス1世の権力に従った。
これは聖書で真の安息日であった日を、異教徒のカレンダーの土曜日に変更するということであった。
コンスタンティヌス1世というのは一般的に最初のクリスチャン皇帝として知られているが、実は異教徒であった。
死の直前にバプテスマを受けることは許したが、死ぬまで(337年まで)最高神祇官(さいこうじんぎかん)という最高司祭の地位を保持した。
最高神祇官というのは(現在のカトリック教徒も認めているが)現在のローマカトリックの教皇と同じ権力に位置し、後のローマ教皇の位にあたる。
コンスタンティヌス1世は政治的議会において、非常に戦略家でもあった。
コンスタンティヌス1世は、ローマ帝国を統治することにおいて、政治に最も影響力を及ぼす可能性のあるクリスチャンを治めることを何よりも望んでいた。
そこで計画したことがクリスチャンと異教徒との融合である。
言葉をみただけでは不可能と思えることを、この男は成し遂げたのである。
その時期のローマ帝国においてのユダヤ教徒というのは少数派で、彼の政治にはあまり影響はないとみなされていたため、政治的干渉を受けることは少なかったため、ユダヤ教徒はこの時期は聖書歴に従って礼拝していた。
コンスタンティヌスが、クリスチャンと異教徒を強制的に一つにしようと最も努力した戦略の一つに暦の導入、つまりユリウス暦をクリスチャンに取り入れさせるという戦略があった。
ユリウス暦というのは現在の太陽暦であるグレゴリオ暦が採用される前まで使用していた太陽暦である。
このユリウス暦というのは一週間に8日あった。
それはA-Hまであり、週の一日を表してる。
このユリウス暦というのは、BC45年に作られた暦である。
ユリウス暦の前の古代ローマ暦のように、初期のユリウス暦は週に8日あった。
ローマにおける週の1日と初期のユリウス暦は、AからHまで割り振られていた。
週が8日というのは、石の遺跡からはっきりと識別できる。
文字A-Hというのは、曜日を示している。
当時、各国は異なる方法で時間を測っていたため、ローマ帝国内でもユリウス暦において地域差があったといわれる。
”そんな中で、週が7日制の異教徒の暦は紀元前一世紀にローマに入ってきた。”
(出典:Robert L. Odom, Sunday in Roman Paganism, “The Planetary Week in the First Century B.C.”)
この事実は考古学的証拠によって裏付けられている。
<以下画像引用:https://en.wikipedia.org/wiki/Roman_calendar#Nundinal_cycle>
この置き換えは直ちに起こるものではなく、週7日制の惑星歴が普及するにつれて、曜日をA-Gと表記するのではなく、惑星に司る偶像の名前にとって変わられた。
そして、これがコンスタンティヌス1世が政治を推し進めるために活用した状況であった。
それは、キリスト教徒を支持するのではなく、異教徒派閥を支持する繊細なバランスの取れた行為であった。
最初にコンスタンティヌス1世は、太陽の日、すなわち日曜日を尊重する法律を制定した。
しかし、元となった最初の惑星歴では、土曜日が週の第1日目であり、2日目が日曜日、7日目が金曜日であった。
以下のカレンダー表はAD79-81年に作られたローマの公衆浴場に描かれているものである。
下の画像より週の1日目である土曜日を司るのがサタンである土星(英語saturn)、
2日目は日曜日を司る”dies solis"、3日目は月のセレーネ、最終日である金曜日はヴィーナスである。
<以下画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9B%9C%E6%97%A5>
また、コンスタンティヌス1世にとって、太陽というのは個人的なシンボルでもあった。
そして、日曜日崇拝というのはもともと異教徒が太陽神崇拝をする日であったが、コンスタンティヌスの策略により、次第にクリスチャンにも受け入れられていった。
2世紀までには、特にヨーロッパのクリスチャンの中では、日曜日を復活日として受け入れていた。
そして、これがコンスタンティヌス1世の異教徒とクリスチャンを結び付けるのに必要な突破口であった。
コンスタンティヌス1世の日曜日令というのは過大評価されるべきではない。
この法令の裏にはクリスチャンに太陽神であるヘラクレス、アポロ、ミトラの崇拝を適応するために、安息日や主の日(現在では主の日と呼ばれている)という名前を使わず、古代占星術と異教徒の呼び名であった”dies solis"と呼び、日曜日を冒涜することを禁止した。
以下”dies solis"とは?
コンスタンティヌス1世はこの日曜日を制定したために、クリスチャン皇帝と思われがちだが、その意図は全く反対で、ただ政治的にクリスチャンと異教徒を統一したかっただけなのである。
週が七日の惑星歴は、8曜制のユリウス暦と聖書的な週7日制を廃止し、惑わすための手段であった。
つまり、現在の週7日間という暦は聖書から派生しているのではなく、ただの異教徒の太陽神崇拝のため、偶像礼拝のために使用されていた暦に過ぎない。
そして、コンスタンティヌス1世は見かけ上は異教徒とクリスチャンを融合し、和解させたように見えたが、救い主の復活祭の度に100年以上にわたる議論を巻き起こした。
それは、異教徒の惑星歴を受け入れなかった東部のクリスチャンは聖書的な太陰太陽暦に従って、礼拝日を計算していたからである。
また日曜礼拝を受け入れていた西部のクリスチャンでさえも、過ぎ越しの祭りなどは太陰太陽暦を使用していた。
これは異なるカレンダーを使用した時に巻き起こった長い議論の記録である。
”2世紀以来、救い主の死・復活の祝祭を祝う日についての意見の相違があった。 最も古代の習慣は、第1の月の14日、15日、16日を観測することであったようである。 ローマの司教たちは、日曜日を教会の祭りとして遵守することを望み、月の14日の後に来る金曜日、土曜日、日曜日に毎年の祭典を開催することを裁定した。 この論争は、コンスタンティヌス1世がローマの司教のために介入し、他のグループを非合法にするまで、ほぼ2世紀にわたって続いた”
<参考文献:Odom, op. cit., p. 188, emphasis supplied.>
過ぎ越しの祭りというのは、聖書暦では第1の月の14日に当たる(レビ23:5)が、連続的な週のサイクルを持つユリウス暦では代替は不可能であった。
そのため、すべてのクリスチャンは過ぎ越しを第1の月の14日に守るのではなく、日曜日のイースターを守るようにとの法令が出された。
しかし、聖書的なカレンダーを使用していたアジアのクリスチャンはすぐに、ヨーロッパの司祭に抗議した。
ローマの司祭であるビクターに送られた手紙の中に、ヨーロッパのクリスチャンが異教徒の暦で日曜日に礼拝している一方で、アジアの司祭であるポリュクラテスは過ぎ越しを守るために聖書的なカレンダーを使用し続けるという確固たる信念を宣言した。
彼の手紙というのは今日のクリスチャンにとって、とても重要なものである。
過ぎ越しの祭りとは最愛の弟子ヨハネや使徒パウロが守るようにと示しているとおりである。
アジアの司祭であるポリュクラテスは、ローマの圧力に負けることなく、昔からの風習に従って聖書的な太陰太陽暦を使用することを決定した。
”私たちは聖書通り、正確な日を守る。付け加えたりも、取り去ったりもしない。アジアでは大きな光が眠りについた。その光は、救い主(ヤフシュア様)が天から栄光を纏って降りてこられ、すべての聖徒たちを探し出すとき、再び立ち上がらなければならない。
また12使徒は聖書の福音に従って、月の14日をしっかりと守っていた。
これらの規則(日曜日を新たな礼拝日と認め、これまでの祭りを日曜日に変更し祝うこと)に従うことに何の価値も見いだせないので、我々は我々の信仰に従うことにする。”
<参考文献:Ibid., Chapter 24, v. 1-4, 6, emphasis supplied.>
アジアの教会は、聖書歴に従って過ぎ越しの祭りを守ろうとしたので、おそらく安息日も聖書歴に従って守っていたに違いない。
そのため、ローマの司祭は一般的な教団からアジアの教会を異端として切り捨て、そこにいるすべての兄弟姉妹に破門を言い渡した。
クリスチャンと異教徒を統一するためには、聖書歴から異教徒の暦であるユリウス暦に過ぎ越しと復活祭を移さなければならなかった。
そのため、日曜日を遵守せよとの法令がでたCE.321の四年後の325年にかの有名なニカイア公会議が開かれた。
”「この復活祭は神聖なフェスティバルで、ユダヤ人の習慣を守らなければならないということを意味するものではありません。 それでは、この厄介な人々と共通するものは何も持たないようにしましょう。 私たちの救い主は私たちに別の道を示しました。」
この発言はコンスタンティヌス1世によってもたらされたものである”
<参考文献:Heinrich Graetz, History of the Jews, (Philadelphia: The Jewish Publication Society of America, 1893), Vol. II, pp. 563-564, emphasis supplied.>
コンスタンティヌス1世がしたことのまとめ
①異教徒の暦によって日曜日を週の初めに制定し、週の最後を土曜日とした
②過ぎ越しの祭りの代わりに、聖書には何も記述の無い日曜日に行われるイースターをあがめさせた
③異教徒とクリスチャンにとって日曜日を聖なる日として制定した。
ラビの最高裁判所であるサンへドリンがエルサレムを取り仕切っている間は、カレンダーがない状態であった。
なぜなら、サンヘドリンが太陽と月を観察してその結果を使者に託し、それぞれの地域に新月日や閏年を報告していたからである。
コンスタンティヌス1世の息子、コンスタンティウス2世(337-362)は、クリスチャンだけでなく、ユダヤ人に対する迫害もすさまじいものであった。
聖書的なカレンダーを使用することによって、様々な激しい処罰があった。
春の到来や新月の日、また新年の始まりなどはサンヘドリンという機関行っていた。サンヘドリンの最後の統領であるヒレル二世は、ローマからそれまで使用していた聖書暦を使用することを禁止されたため、カレンダーを修正し、各々の判断でカレンダーを決定できるようにした。
父コンスタンティヌス1世の時は、ユダヤ人に対する迫害は少なかったため、ユダヤ人は現在も本当の安息日を守っていると思われがちだが、実はそうではない。
ヒレルⅡ世はコンスタンティウス2世の迫害があまりにも激しかったため、聖書的な信仰が残るよりも、子孫が生き残ることが出来るように、聖書歴に改定をくわえ、土曜日が安息日であると変更した。
また、これらの功績をサンヘドリンも支持したのである。
つまり、これからのちの礼拝は聖書歴で礼拝されることはなくなってしまった。
①カトリックは復活祭を日曜日に行っている。これはコンスタンティヌス1世が聖書歴から異教徒の惑星歴に変更したため、月の14日に行われる過ぎ越しの祭りが、太陽を崇拝する日曜日に行われるイースターにとって代わられた。
②本当の安息日がなくなったことを知らないユダヤ人たちは、今も聖書通り週七日のサイクルでタルムードに則って暦が続いていると思っているので、サタンの日である土曜日に安息日の礼拝をしている
③ほとんどのクリスチャンは、現代のグレゴリオ暦の週の最初を復活の日と信じ込み、カトリックに混ざって日曜日に礼拝をおこなっている。
④また週の初めの日に礼拝するのではなく、週の七日目である土曜日に礼拝をおこなうのが正しいと思い、土曜日に礼拝をおこなっているクリスチャンもいる。
⑤イスラム教も同様に、異教徒のカレンダーにのっとり、金曜日にモスクで礼拝をおこなっている。
現代のグレゴリオ暦を使用して、真の第七日の安息日を発見することはできない。
この太陽暦は、異教の方法以外の何ものでもない。初期のユリウス暦は異教徒のために、異教徒によって設立された。
これは、正式にニケイア会議で教会の使用のために採用された。ユリウス暦はそののち、グレゴリオ暦 、後の教皇グレゴリウス13世の命令を受けて、イエズス会の天文学者、クリストファークラビウスによって調整された。
クラビウスはユリウス暦(ひいてはそれから来ているグレゴリオ暦)は異教に設立され、聖書のカレンダーに全く接続されていないされていることを確認している。
グレゴリオ暦の説明から、クラウビスはユリウス暦が教会のカレンダーとして受け入れられたとき、聖書暦は拒否された
カトリック教会は過ぎ越しの祭りを正しい方法で祝ったことはないが、そのお祝いでは月や太陽を観察し、最高神祇官によってそれらが聖別されたことが、ニカイア公会堂で確認された。(ここでいう最高神祇官とはコンスタンティヌス1世のこと。)
コンスタンティヌス1世は異教徒とクリスチャンを一つにしたいという願いを聖書暦の使用を禁止することによって、その野望を達成した。
ヒレル二世はユダヤ教の子孫の生存を望んだ。
彼は、聖書歴を異教徒の暦に取り入れ、修正することでコンスタンティウス2世に妥協したことになる。
その結果、大多数の人に土曜日というのは聖書的な安息日で、日曜日はヤフシュア様が蘇った日であるということを根付かせた。
このように、クリスチャンとユダヤ人はヤフワ様の真の安息日を無視し、異教徒の太陽暦によって計算した礼拝の日を使用している。
しかし、聖書的な太陰太陽暦だけが、真の安息日を見つけることができる。
人間の盲目的な伝統を捨て、ヤフワ様の言葉と礼拝するように定められた暦を受け入れなけらばならない。
また、今日のキリスト教会では、過越しではなく、イースターを祝い、またラッパ祭や大贖罪日、仮庵の祭りなどを祝わずクリスマスを祝うようになっている。
歴史を通して、悪霊はヤフワ様に対する礼拝をすべて妨害し、現代のクリスチャンを黙示録にある教会でラオデキヤ教会に言われたように、現代のクリスチャンを霊的に盲目の者とすることに成功した。
黙3:15-22
3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
ホセア4:6
わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう
コンスタンティヌス1世は、使徒のクリスチャン教会にも同じように影響を与えた。
テルトゥリアヌスは、他のクリスチャンは1000年以上続いた聖書暦を使っているのに対して、異教徒化されたクリスチャンは二世紀の初めには“太陽の日”である日曜日に礼拝を捧げていたことを明らかにしている。
これらのことが決定されたニケイア公会議の後、40年間はラオデキア評議会は、安息日にクリスチャンは働き、主の日に休まなければならないとする声明を出した。
”クリスチャンはユダヤ人のように土曜日は休むべきでない。
しかし、主の日には特にこれを敬意を払い、クリスチャンはできる限り休まなければならない。
ユダヤ人と同様にしているならば、キリスト教からは切り捨てられるべきである”と。
ここで土曜日といわれているのも間違いであることが分かっている。正確には土曜日なく、安息日のことを指している。
カレンダーが変更されたときに生きていたクリスチャンは土曜日が安息日であるとの混乱はなかった。
それは誰もが異教徒のカレンダーの週の最初の日であった土曜日が、週の最後の七日目に移動したことを知っていたからである。
安息日というのは、ユダヤの太陰太陽暦での七日目にあたる。
ローマの政治的権力者は、コンスタンティヌス1世とコンスタンティウス2世の宗教令をサポートした。
一部の学者は、この安息日の論争が土曜日vs日曜日であったと誤って誤解しているが、歴史的背景から見ると、当時の人々は聖書の太陰太陽暦の存在とその使用方法について熟知していたことが明らかである。
東の国やローマ帝国の流域を超えた多くの信者は聖書のカレンダーを放棄することを拒んだ。
安息日の遵守とその困難さから抜け出す方法を探していたクリスチャンは、週の最初に設定された日曜日を選んだ。
そして、この時すでにダニエル書の預言が成就したのである。
ダニエル7:25
彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。
ヤフシュア様が生きておられた時代にイスラエルが使用できたカレンダーがふたつある。
ひとつは週が8日ある太陽暦であるユリウス暦か、週が七日で新月の日から始まる聖書歴のカレンダーである。
(考古学的証拠より、ヤフシュア様が生きていた時代の惑星歴は土曜日から始まる暦であり、日曜日を週の1日目として礼拝するという暦の概念はコンスタンティヌス1世の時まで存在しなかったことが証明されている。)
どちらのカレンダーがイスラエル人のカレンダーであり、ヤフシュア様が使われたのか?
新約聖書ではヤフシュア様は特に、安息日の日付のことについては言及されなかったので、ヤフシュア様の時代には正しい聖書歴が使用されていたと思われる。
あなたが礼拝する日というのは、あなたがどのカレンダーを使用するかによって、誰を礼拝しているのかを明らかにするものである。
さて、以上のことは難しい本や英語のサイトに行かなければ調べられないようなことであろうか?中にはそうしないと出てこないような事実もあるだろうが、出来る限り公に知られている証拠から歴史を俯瞰してきたつもりである。
また、ぜひ「日曜日」と検索してwikipediaを見てみてほしい。
<下画像引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5>
<以下の動画「ヨハネの黙示録666の正体」はすべての内容に同意しているわけではありませんが、わかりやすくまとめられているので是非一度ご覧になって下さい>
<以下参考動画(英語)>